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インタビュアーの私は過去に塾生として新村先生には大変お世話になりました。
新村先生と言うと、教材の練習帳が、とても興味深いんです。
全国で多くの学習教室に導入されているという、その練習帳の、誕生エピソードなどがあったら、お話ししてもらえないでしょうか?
どのような経緯で作られたものなのでしょう?
これは、語れば物語なんです。オリジナル教材ですから。
まず、当時、ある一人の子を預かったんです。
農家の子どもだったのですが、学校の先生が、大分遅れているからという事で、妻に相談が入ってきたんです。
その子が、小学校一年生で第1号の塾生でした。
読み書きを教えてあげたり、たまには泊めて、お風呂に入れてあげたりしていました。
親子、家族のようでした。
そして、ひとつきふたつきするうちに、「うちの子をみてくれないか」と方々から話しがかかってくるようになったんです。
そのひと月後には、うちの子もうちの子もという事で、10人か、15人に、あっという間になりました。
その後、どんどん増え続け、3年後には300人を越すようになっていました。
--- 300人ですか!?
赤塚地域の子どもは、かなり通われていたのでは?
赤塚小学校の高学年の子どもは、3分の1ほどは来ていたのではないかな?
その時に感じたのが、
なんとまあ、学習の遅れている子どもの多い事か。という事でした。
これは大変なものだな、と。
家内は昔、教員だったので、昔取った杵柄でしたが、私は、教育や教材研究の素人だったんです。
当時は、色々な開発や特許の研究をしていました。
家内が、こういう事を言っていました。
「いやあ、なかなかわかってもらえらないものね」と。
どういうところなのか、と訊くと、特に繰り下がりの引き算。一年生三学期あたりの事を、二年生三年生が、理解していないわけです。
家内にどうしましょうと言われまして、何か手はないかなあ?と。
本屋さんに行って、参考書を手に取ってみても、ないのです。
では、作らなくてはいけないなと。
その時から教材研究が始まったんです。
--- そういう事が、きっかけだったんですねえ。
38年前です。
私がプリントを作ってみたところ、家内が、皆喜んでやっているよと。
まだ、そのころは私は先生とは呼ばれず、おじさん、おじちゃんと呼ばれていました。
「おじちゃん、おじちゃんのつくったプリントなんだって?引き算がわかったよ!」
と、皆が、嬉しそうに言うんです。
その時、ふと思ったんです。
自分は、年商何億とか、そういう企業を目指して、それまで仕事をしていたのですが、子どもたちの反応から、こういう他愛も無い事がわからないのか。
はて、本屋にも売ってないし。
そして、私が作ってみたところ、喜んでくれる。
教育の世界には、必要としてくれる人が、何万人、何億人といるだろう。
世界中の子どもが困っているのだろうなあ。
これは、大研究、大発明になるなあって。
決して、他愛も無い事ではないのだなと。
日本中の子どもたちが、このような、「12−4」も分からずに苦しんでいるのかなって。
これはやらねばなるまいと思いました。
こうも思ったんです。
かつて、世の中に。先生と呼ばれている人は、数え切れないほどいるだろう。
しかし、このように進化した世の中で、「12−4」が分からないというのは、どういう事なのだろうと。
ははあ、ここに、私の仕事があるのだな、と。
それで、のめり込んでしまいました。
プリントも、ガリ版から始まりました。
ガリ版、知らないでしょう?
--- はい。
幼い息子達に手伝ってもらい、刷っていました。
その内に、あの教材、この教材と、気が付いたら何十種類にもなっていました。
その次は、輪転機でしたね・・・
そうこうしている内に、プリントの数は、膨大なものになっていました。
それを、一冊にまとめたもの。
それが、「れんしゅうちょう」の原型なのです。
最初は宿題のための冊子だったのです。
--- そういう物語があったのですねえ・・・
それから、一年生のものから、二年生向けのもの。三年生。
幼児と。次々に種類が増えて行きました。
印刷機も、最新式のものを導入したあと、印刷業者の方にやってもらうようになりました。
こう話してみると、なかなかに物語なんですね・・・
その後、練習帳は、市販されるようにもなり、全国一千教室で使われるほどまでになりました。
累計冊数は、八百万部という部数を超える、教育界のベストセラーになりました。
基礎学習教材の傑作と呼ばれているそうです。 |
次回へ続く。。。
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