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板橋な人
村中 義雄さん
高島平で33年。地元に根ざし、新聞を作り続ける編集長。
高島平に、高島平新聞というものがあるのをご存知でしょうか?
地元・高島平の人なら、誰もが知っていて、親しんでいる新聞です。
どのような方達が作っているのでしょう?
その新聞社の編集長である、村中義雄さんにお話を伺いました。
村中 義雄さん
村中 義雄さん



編集長と、独立する事になったんです。それが18,9歳の頃ですかね。

--- 生い立ちからお聞きしたいのですが、どのようなところでお生まれになったのでしょうか?
昭和16年11月、大東亜戦争の始まる1カ月前に、東京港区の麻布のそば屋で生まれました。
私の実家というのは、今は、関東一円に三百何十軒もある、おそばやさん『長寿庵』の本家なんです。
私の祖父が、宗家でして。
そば屋があって、おじいさんがそばを作っていたのは覚えています。

--- どういった、少年、青春時代だったのでしょう?
終戦(昭和20年8月)になってからは、苦しい思い出がありますね。
長寿庵の本家は空襲で焼けてしまいましたし。
小学校1年の時、4月に祖父が亡くなり、その後すぐ6月に父が亡くなったので、戦後復興の頃は、やたらひもじい思いをしましたね。
小学校の頃、学校が終わると、親戚の叔父、叔母の店にアルバイトというか手伝いに行き、少しお小遣いをもらっていました。
子どもの頃は、六本木とか、新橋とか、東京タワーのあたりが僕の遊び圏でした。
その当時は一面焼け野原で、今の繁栄からは想像できないですよね。
青春といいましても、親戚のお店で働いたり、アルバイトをやったり、新聞配達をやったり、あらゆる事で、働くという事を小さい時からやっていましたね。

--- そんな村中さんが、新聞の世界に入るきっかけというのは?
中学を卒業する時に、高校はどうする?という話しになりますよね。
その頃、まだ家は貧しかったので定時制でいいやと思ったんです。
当時の定時制というと、働く少年の行く学校でした。
就職先として、新橋にある代議士の事務所の書生をやるというのがあり、中学生なりにやってみようかなと思いました。
その代議士さんは、新橋に事務所を持ち、一方で新聞社をやっていたんです。
運輸新聞社という、日刊の業界専門紙でした。
僕はそこに行く事になったんです。
新聞社では「こどもさん」と言うのだけれど、鉛筆を削ったり、原稿を届けたり。そんな事をやっていました。
例えば、カメラ持って来い!と言えば、持って行く。
そうしたら、そこで現場に遭遇しますよね。
「ならば撮ってみろ。」となるんです。笑
僕は写真が趣味のようなものでしたから、良い写真をいっぱい撮って。
そのうちに、会社の中に暗室をつくってもらい自分で現像したりしました。
ぐっと現場に近づいてしまったんですね。
写真の現像やなんかは大変面白いものでした。
そのうちに、そこの編集長と、独立する事になったんです。
それが18、9歳の頃ですかね。

--- 高校生の頃から報道の世界に入られたのですね、すごい・・・
編集長と一緒に、同じ業界の別の輸送新聞という週刊紙をつくったんです。
会社を作ってからは、もう、記者ですよ。
20歳の時には、記者をやっていたんです。
その後、23歳で結婚しましたから、結婚は早い方でしたね。


そこで感じた事は、新しい街づくりで、情報とはいかに大切か。というこ事ですね。


---その当時のお住まいというのは?
まず、西千葉の幸町団地に入りました。
団地には、草創期というものがあるんです。
新しく出来た「団地」というものが、どういうものなのかを体験出来ました。
見ず知らずの人が、いっせのせで入居します。
そしたら、街づくりをどうするかという事があるんです。
そこでは仕事柄、自治会で広報を担当していました。

---なるほど。
やるとなったら、アマチュアではなく、プロの新聞を作ってしまうんです。
それがヒットし、大変読まれるようになりました。
そこで感じた事は、新しい街づくりで、情報流通というか、情報とはいかに大切か。
という事ですね。
これはいい経験でした。

---板橋には、どういう経緯で出て来られたんですか?
当時の住まいの千葉の団地から、都心の会社までは遠距離通勤でして。
それはなかなかに負担でした。
もう、早く東京に戻りたいなと。
その時が、高島平団地の工事が始まっていた頃でした。

---高島平ですね。
応募したら、この場所が、パッと当たってしまったんです。
そこで、また、以前の団地の事を思い出して、団地を作ったら、何が始まるか。という事を考えたんです。

---街づくりですね。
はい。街づくりです。 
3月に入居で、一番早いのは、銀行のある棟で1月入居ですが、4月・5月になると、色んな事が起こってくる。
そして、5月の中旬には「団地新聞・高島平」を創刊しました。
街が大きくなって、高島平新聞と題号変更するのですが・・・。

---その当時お勤めしていた会社は?
安月給だったし、生活もありますので、30歳で輸送新聞社を辞めました。
やめるなら自分でやる。
という事で、高島平新聞社を立ち上げました。

---3月に入居して5月に発行なんて、本当にあっというまですね。
3月に引っ越して、ふた月の内に新聞を出しているんです。
街の動きをちゃんとキャッチして、何をどうすればどういう風にという感じで、
新聞作りを始めました。
タウン紙というと、その当時はありませんでした。
認識が誰にもないものですから、スポンサー集めをするのにも、何をするにも、えらい苦労がありましたね。
見た事もない新聞ですから。

---そうですよね。
理解されるまでに時間がかかるんです。
町内会の新聞つくるんだろう?という話しになってしまう。
そうではないんですと。
あまり部数が少ないと、メディアとしての力がないから、評価されないので、1、2年のうちに、1万部とか、1万何千部とかに部数を増やしていったんです。
すると、スポンサーがつくようになってきました。
最初は4ページの新聞だったんですよ。
次は8ページかな?
今では16ページが通常になっています。


記念すべき第1号


ぎりぎりのところまで、突っ張って突っ張って、入っていくんです。


---新聞は無料なのですか?
はい。無料です。
1軒、1軒、玄関のポストに入れていくんです。
建前として、購読料は入れてあるんです。
というのも、第3種郵便物の関係で、購読料がないと認められないので、必ず入れるんですよ。
定価が出ているから、お金がいるんじゃないか、後で取りにくるんじゃないか。
って、皆さん心配するんですけれども、
やっていくと、わかっていただけるようになりました。

---30年もやられていると、色々な山や谷があったと思うのですが。
不景気だというと、先に削るのは、広告費だったりしますよね。
段々広告が減ると、苦しくなる。
ページ数を減らすことは出来るけど、やめてはいけないんです。
やめると次が出来ませんから。がまんして、やらなくてはいけない。
それやこれやで、いい時もあれば、悪い時もあります。
そういう意味では、経営的に、辛い時と、良い時がある。
と言う意味での、山あり谷ありですね。

---編集者としての村中さんに質問なのですが、記事を書くコツ。記事をとってくるコツなどがありましたら、是非教えてください。
取材というのは、誰が、このメディアを読むの?という、そこがしっかりと分かっていないとだめでしょうね。
あたりまえの話だけなら、きれい事で終わってしまうのですが、それはそれで、まあ、無難な取材が出来ます。
しかし、本当に知りたい事、見たい事、聞きたい事。
例えば高島平新聞の読者ですけれど、その方たちが何を考えているのかな?と。
普段からアンテナを張り、ちゃんとキャッチする事。
迎合ではないんです。決して、読者迎合してはいけない。
しかし、一方で、読者が何を考えてるの?何を求めているの?
いくら興味があっても、スキャンダルばかりを追いかけてもいけませんし。
しかし、書けないと逃げててもいけない。
ぎりぎりのところまで、突っ張って突っ張って、入っていくんです。

---なるほど。
事前調査もやりますし。
本人に会う時には、とことん突っ込んでみる。
そして、書く書かないは、総合判断でしょうね。
信頼関係が生まれると、村中に喋っても大丈夫という、安心感が生まれ、結構しゃべってくれるものなんです。
それについて聞きたいんだけど。っていうと、あんたなら大丈夫だね。っていう事で、色々としゃべってくれるんです。
それほどストレートには、僕は書きませんね。
結果としては、塩梅良く書いたなって、感じで。
読者からみても面白いという話になるし。
その辺の、取材先と読者との間に入って、とても辛い事もあるけれど、ちゃんと、しっかり聞き、書くという事です。
それと、信頼関係を積み上げる事です。毎日毎日と。
そういうところで、新聞に対する信頼が、読者にあって、取材先にあって。
これは読まなきゃな。というものを作っています。
付け加えますと、住人の方にもこちらの存在を良く知られている事が大事ですね。

---高島平新聞さんと、街の人との信頼関係は、とても深そうですね。
それは、やはり築いていくものですが、案外、早く築く事が出来ました。
ただ、街の人は入れ替わりますよね。最初からいる人なんて、めったにいませんから。
事務所のある棟は、結構、居残っている人が多いのだけれど、153軒のうち、最初からいる人っていうのは、20軒〜25軒かな?
だから、全部でもないですが、8割方、入れ替わってしまうんです。
それでも、20年近く住んでいる人はいます。
10年住んでいる人はざらにいます。10年といっても長いものですから、
先に高島平新聞があり、来たら、新聞が入っていた。
なかなか面白いじゃない?っていうね。

---入れ替わる人はいても、高島平新聞への信頼というのは、変わらないんですね。
信頼、信頼と、私から言うと、少し口幅ったいですけれどね・・・(笑
そのぐらいの努力はしていますし、そのぐらいのものは作っています。
読者に対しても、やたらにこびを売ったり、迎合したりはしません。
しかし、読者は信頼を持って読んでくれていて、間違いがあれば、すぐに言ってくれます。ありがたい事ですね。


もっと、情報というのは身近な存在であってほしいな、と思っています。


---ずばり、面白い紙面の秘密というのは?
一つには、同じニュースをどう切るかっていうのもあるんです。
成人式一つとっても、色々な語り口がありますよね。
オーソドックスなもの、一風変わったもの。色々あります。
ネタをどう切るか。それで面白さが決まるんです。
物事を知っている事も大切ですけれど、その事以前に、このニュースをどう料理するかという事ですね。
面白がるのはなんなの?っていうのはありますよね。
面白がるとは変な言い方ですけれど、本音の所で何が知りたいの?
きれい事はきれい事でいいのだけれど、もうちょっと面白い事ないの?って、思っているのじゃないのかな?
ニュースの面白さっていうのは、切り口の面白さでもあるし。
本音の部分をどこまで出せるかっていう事でもあるし。

---今後の展望、抱負などをお願いします。
この街は、少子高齢化で大変問題になっています。
それをどう街が対応していくかという事について、一生懸命に考えています。
そして、行動しています。
データの分析でも、少子化は恐ろしい勢いで進んでいます。
前は、1万5千ほどいた子ども達が、今は5千人ほどです。
3分の1ですね。学校は廃校になりますし。
実際に起こっているんです。
その時に、どうすればいいのか。
色々と提言し、相談し、活動しています。

---最後に、いたばし区民の方に一言!
街づくりというのは、住民自身の意識の問題だと思っています。
意識をどう、醸成していくかというのが、難しいところだと思います。
行政が旗を振っても、なかなか上手くはいきませんし。
情報交換がどれだけ出来ているかという事によって、街の雰囲気が変わってくるんです。
高島平がいい街だよって言えるのは、情報流通が、とても上手くいっているからだと思います。
共通の話題と、お隣さんを知っているという事。
結果として、お互いが仲良くなっていく。
そういう事ができるようになる仕組み。それが大事だと思います。
もっと、情報というのは身近な存在であってほしいな、と思っています。

---貴重なお話しをありがとうございました!





昭和47年(1972)
当時東洋一のマンモス団地といわれた「高島平団地」の入居と共に「高島平新聞」を創刊。
「タウン紙」という名称もなかった時代から続く、フリーペーパーの草分けともいえる地域マスコミです。

月刊、毎月15日発行。
タブロイド判、通常16ページ、
20,500部を高島平全域に無料配布
(一部有料)

〒175-0082
東京都板橋区高島平2-33-4-109
TEL 03-3936-1634
FAX 03-3936-1314
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