---生い立ちからお聞きしたいと思うのですが。
生まれは兵庫県ですが、3、4歳の時には東京に来ていたので、東京で生まれて育ったようなものです。
小学校に入ったのが、昭和21年で、いわゆる戦後の民主教育の第一期生ですね。
中学校は、赤坂の迎賓館のすぐ横。
高校は新宿高校という新宿御苑のすぐ近くの進学校。
環境が良すぎましたね。(笑
高校卒業後、父の商売を1年間手伝い、完全な1年間のブランクの後、東京教育大学(現筑波大学)に進学しました。
当時は本当に小さな大学で、私が専攻した法律政治学という分野は、1学年15人しかいなく、良き時代でした。
先生方も比較的、当時一流の方が多く、その点は恵まれていましたね。
研究会を自分達で立ち上げたり、サークル活動に没頭してみたり。
アルバイトで大変だったり。
無鉄砲な生活で、よく体力が続いたなあと思います。
---いつ頃から、大学の先生になろう。教師になろう。と、思い始めたのですか?
僕は、学生時代から比較的、勉強は好きだったんです。
何となく、一般企業に行くつもりはありませんでした。
大学卒業後三年間、高校の教員を勤め、それから大学院に入りました。
---大東文化大学に来られるまでというのは?
最初の勤めは、山形大学でした。30代は、山形で過ごしました。
40代を静岡大学で過ごしました。
こうしてみると、年代の区切り区切りで、大学が変わっていますね。
ある意味では理想的なキャリアですね。(笑
---その後、大東文化大学に来られたのですね。
研究上の全国的なネットワークの中で、大東文化に親しい先輩がいたということもありましたが、直接の理由は、大東文化大学の法学部に政治学科を作ろうという話があり、その政治学科の設立に関わるという事だったんです。
50歳でしたから、中堅的なメンバーとして招いていただきました。
それからもう15年もたっちゃいましたね。
あっというまです。
---今年の4月から学長になられたということですが。
特別な事はないんですよ。
一に、大東文化大学ではまだ15年ですから、大東での経験は浅いかもわかりませんが、色々な場面で管理者的な事をやらされて来たこと。
二に、少子化が進んでいく中で、受験人口も減って行って、どこの大学もこのままで大丈夫か?という危機感を持っていますが、そういう中で、個々の色々な改革が大事なのと同時に、
中長期路線という、グランドデザインを作り上げていかないといけません。
「スクラップ アンド ビルド」と言って、破壊して構築する。
中長期的な路線のためには、内部的な痛みも伴いながら、新しいものを作っていかなくてはならないんです。
えてして大学人と言うのは、恨まれる事はしたくないというタイプの人が多いのです。(笑
そういう意味で、あいつならばというところがあったのでしょうね。
今の大東にとっては、僕が必要なのかな?と思っています。
大学と言うのは、地域社会、生きた社会を足場にしなくてはいけない。
視野としては、グローバルな、国際的な視野を持ってもらわなければいけないんです。
そのためには、知的な面での知識や技能などの習得(ヘッド)は絶対に必要なのだけれども、それと合わせて、情熱と思いやり(ハート)を持ってもらわなくては困ります。
そして、健全な心身や活動力(ヘルス)です。
ヘッド・ハート・ヘルス。この全人格的な若者の育成という点で、大学教育のあり方を見直したいと思っています。
僕の教育上の底に流れているというものは、そこにあります。
---実際に、学長になっていかがですか?
覚悟はしていましたが、想像以上に忙しいですね。
大学での最終責任者としての決断しなくてはならない事、手を打たなければいけない事が、
あとからあとから、どんどん出てくるんですよ。
毎日が、決断の連続です。
大東は、中規模の大学と言っても、学生が1万4千人ぐらいいるわけで、その中からは、思いもよらない事が起こったりもするんです。(笑
最初は、何事も経験ですから、あまり丸投げしないで、自分で全部の資料を読んでみようと思ってやっています。
僕自身のスタンスと言うのは、教員である以上、自分の持ち時間の3分の1は学生の教育に、3分の1は自分の研究に、残る3分の1は、大学の運営や地域社会との交流ですね。
研究室の内部だけに閉じこもらずに、なるべく社会とのつながりを持っていかなければ申し訳ないし、また自分達の学問もだめだと言うような、気負ったものがあるかもわかりませんね。(笑
---板橋グリーンカレッジ(高齢者の方向けの、生涯学習の講座)も、そのような心持でやられているんですねえ。
私たちの研究成果を市民の方に開放するだけでなく、研究そのものを、地域に開放するべきだという考えです。
地域社会には、きわめて問題関心のある優れた方がたくさんいらっしゃいます。
そういう方々と共同研究すると、我々自身が気負わずに、そこから学んでいけるんです。
そのような姿勢が必要なのではないかな?とね。
そんな思いからグリーンカレッジは生まれたんですね。
そうしたら、板橋区と気が合ったというか。笑
そのつながりで、地域デザインフォーラム(大東文化大学と板橋区との地域連携研究)も生まれました。
---板橋に対してどんな印象をお持ちですか?
板橋というのは板橋宿を中心として開けたところなのですが・・・
歴史の発展と言うのは面白いもので、荒川の泥地に近い徳丸ヶ原で、鉄砲の演習が最初に行われているんですよ。
これは、逆に言うと、原っぱや田んぼだったからこそ、演習ができたんですね。
高島秋帆の話は、板橋の多くの方はご存知なのだけれども、
高島秋帆のお弟子さんに江川太郎左衛門という人(当時の役職はお代官)がいます。
その彼が、韮山の鋼鉄を作る反射炉を作っているんです。
高島秋帆の一番弟子で西洋砲術の秘伝を与えられた彼が、
そこでの技術の結果として、ペリーがやって来たときに、砲台を品川沖に築いたんです。
「お台場」という名前はそこから来ているんですよ。
それが今の、格好の観光スポット、デートスポットになっているわけです。
こんなエピソード1つ取っても、徳丸の原っぱで演習が行われた事が、周り巡って、お台場になっている。
こういうところが歴史の面白いところなんです。
そういう点では、板橋という地域は、
僕のささやかな経験にしても、商店街も、工場も、住宅街も、農地も、バランスよく混在している地域ですし、
歴史としても、宿場町として発展した地域があったり、野原や田んぼがあったり・・・
こういう事を複合的に整理してみたら、やはり面白い地域、歴史の一コマが浮かんでくる。
そういうイメージを持っています。
---和田先生の今後の活動の展望、抱負などは?
板橋区の良さを押し出して行きたいと思っています。
板橋区には一点豪華的な特色と言うのは薄いかもしれない。
特別にアピールする強烈なものは弱いかもしれない。
けれども、先ほど挙げた色々な面を、
モザイクとして複合してみれば、僕はかなりおもしろいと思うんです。
それを、職場として生活し、区民の方とお付き合いする中で、探しながら、訴えていきたい。
そういう気持ちがあります。
私も、15年間生活して、まあ、簡単に言うと、板橋が好きになっちゃったんですよね。(笑
職場が中心かもしれませんが、生活してみて、非常に心地よいという印象を受けます。
私自身は今、65歳なんです。
いつまで現役をやれるかという問題もありますが、今までの延長線上で、気張らずにやって行きたいですね。
---恒例なのですが、板橋区民のみなさんや学生の方に一言お願いします!
お互いのハートを大事にしようという事です。
情熱と思いやり、結局、そこに行き着くんですよ。
そういう部分を、区民の方々にも、若い人にも持ってもらいたいし。
お互いの気持ちがどこかで通い合わないと、何も出来ないわけないですし。
それは、皆さんは持っているんです。ただ、上手く発揮されていないんですね。
表に出ていないのだろうと思うのだけれど。
一言と言われたら、ともかく、ハートです!
---ありがとうございました!
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