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おおむかし
赤塚城址貝塚出土の縄文土器武蔵野台地の北東の端に位置する板橋区には、旧石器時代の遺跡が点在します。
なかでも茂呂遺跡(小茂根5丁目、都立大山高校の前近く)、栗原遺跡(城北中央公園内)は約1万7千年前にさかのぼるといわれ、旧石器時代を代表する遺跡の一つです。

近年四葉町や他の地域からも遺跡が発掘されています。
奈良・平安時代も板橋地方の人々は竪穴住居に住み、 稲作を中心とした生活をおくっていたといわれています。
奈良・平安時代というと、平城京・東大寺の大仏・源氏物語など貴族の世界を想像します。
中央と地方のギャップが面白いですね。


かなりむかし(武士の時代)
鎌倉時代から室町時代にかけては豊島氏がこの地方を治めていました。
豊島氏の時代は1477年に太田道灌に破れるまで続きました。
その後、千葉氏が赤塚に移り、赤塚城を居城として板橋を治めました。
16世紀末千葉氏も滅び徳川の時代へと移っていきます。

豊島太郎近義城主が観音像と鎧を与えられている様子

むかし(江戸時代)
板橋宿の図江戸幕府は街道を整備し、一里塚や宿場を設けました。
板橋区内には平尾・志村の両一里塚が作られ、板橋宿が設けられました。
板橋宿は、江戸4宿のひとつとして、江戸へから最初の宿場ということでかなり栄えました。

(江戸4宿(えどししゅく)とは、江戸時代、五街道の整備とともに整備された、江戸(日本橋)に最も近い宿場町。・東海道…品川宿 ・甲州街道…内藤新宿 ・中山道…板橋宿 ・日光街道・奥州街道…千住宿)

明治から第2次世界大戦後
明治に入り、江戸は名前が東京にかわりました。
板橋は武蔵県所属となりその後大宮県、さらに浦和県へと転属され、明治4年(1871年)東京府に編入されました。
昭和7年(1932年)10月1日、東京市に編入され板橋区が誕生しました。
板橋区の工業化のもとは、明治9年(1876年)、板橋区から北区へまたがって建設された軍関係の工場でした。
都心に近く製品輸送に荒川が利用できる利便性から、好都合の地形と条件をそなえていました。
この当時の板橋は宿場をはずれれば、山林と広野で志村方面から荒川流域地帯へかけては住宅も少なかったようです。

戦後(第2次世界大戦後)から現在
昭和22年8月(1947年)板橋区の約60%にあたる南部が分離独立して練馬区が誕生し、その後埼玉県戸田町の一部(現舟渡4丁目)が編入され、現在の板橋区が誕生しました。

終戦後、軍需産業中心の板橋区の工業はなくなりましたが、 立地条件に適した荒川沿岸・志村・前野町などに城北随一の工業地帯ができました。

区内に残された唯一の水田地帯”赤塚たんぼ”(高島平団地のあたりは田んぼだったのです)も昭和41年12月(1966年)から、区画整理事業が進められ都内最大の「高島平団地」が誕生しました。

昭和43年12月(1968年)高島平・巣鴨間に都営地下鉄三田線が開通。
昭和58年6月(1983年)営団有楽町線が池袋・成増間開通。
(東武東上線は、大正3年5月(1914年)池袋・田面沢(川越市の近く)間が開通しています。)

板橋区は、都市化現象・ベッドタウン化・無秩序な開発とともに、緑がなくなり、騒音が増え、大気や河川の汚染などの公害が問題化しました。

昭和59年(1984年)に策定された板橋区基本構想で、21世紀を展望した板橋区の将来像を、「活力ある、緑と文化のまち”板橋”」と定め区民が住みやすい街作りをめざしていますが、少子高齢化・慢性的財政赤字等諸問題を多く抱えて現在にいたっています。
 
※詳しい歴史を知りたい方は、区立郷土資料館を訪ねてみましょう。
【郷土資料館URL】http://www.city.itabashi.tokyo.jp/kyoudo/

※区役所新館2階の区政資料室には、いろいろな資料がありますので行ってみましょう。
【板橋区URL】http://www.city.itabashi.tokyo.jp/